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按察使(あぜち)祭、御斎行。

按察使・藤原光親卿慰霊祭を御斎行

去る5月27日、この日には毎年恒例の須走地区区長会の主催行事として、鎌倉時代の公家・藤原光親(ふじわら・みつちか)卿の慰霊祭が、午前10時より慰霊碑周辺にて斎行された。
この慰霊祭は、毎年5月27日に必ず行われる祭典であり、須走地区区長会主催の下、当社氏子会会員の方が輪番にて世話人が選出され、祭典の準備を行う。
当日は天気が危ぶまれたものの曇天のまま持ちこたえ、地域の各団体様はじめ多くの御参列を頂き、盛大且つ厳粛に執り行われた。
又、祭典には卿の子孫の方も参列され、直会の際には御挨拶を頂いた。

藤原光親卿は、鎌倉時代に後鳥羽上皇の側近として仕えた公家の人物であり、役職を按察使といった。
按察使とは、朝廷の役職の1つで、地方行政府を監督するものである。
卿が仕えた人物・後鳥羽上皇で有名な出来事といえば、承久3(1221)年に鎌倉幕府に対して起こした兵乱である。このときまでは、鎌倉幕府の樹立以降、幕府と朝廷の二元政治が行われていたが、承久の乱にて幕府が勝利したため、その後は鎌倉幕府が優勢となり、朝廷の権力も制限されるなどの日本史上においても一つの重要な出来事である。

卿は側近としてこの出来事に深く関わっているが、決して主戦派ではなく、むしろ上皇に対して「時期尚早」と決起を考え直すよう進言していた立場であった。
結局、上皇の固い意思により上皇方は幕府打倒・討幕を掲げ、卿は北条義時追討の院宣を執筆することとなった。

承久の乱は鎌倉幕府の勝利で終わり、その中で卿も捕らわれの身となり、京都へ送られることになった。
しかし、その道中、加古坂・(現・篭坂峠)矢筈山にて処刑されたのだった。
乱後、北条泰時は卿が記した上皇への諌状を目にし、封建道徳の忠臣・清廉潔白なる素晴らしい人物と評されていた卿を処断したことを、深く後悔したと言われている。

卿の亡骸は、地元民(当時の須走村民)が供養し、天神様として崇めていたと伝えられている。
供養の五輪の塔は、富士山の宝永の噴火の折に埋没して長らく行方が分からなかったが、明治期に発見されている。
また、明治期には須走村民や有志等の請願により慰霊碑も建立されるなどした。

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富士山東口本宮 冨士浅間神社

Author:富士山東口本宮 冨士浅間神社
桓武天皇の時代・延暦21(802)年、富士山東脚が噴火し、雷鳴・地震が終日止まず人々恐れおののいて仕事も手につかない日々が続いた。

依って国司郡司が人々の憂いを憐れみ、鎮火の祈願を行うために富士山東面・須走の地(現在の社地)に斎場を設け、祭事を行った。

すると、翌年4月初申の日に噴火がおさまった。そして、平城天皇の時代・大同2(807)年、その鎮火祭の跡地(現在の社地)に鎮火の御礼のため神を祀ったと伝える。

当社は、富士山須走口登山道の起点となる「富士山東口(=須走口)本宮 冨士浅間神社」である。
氏子を始め富士山を信仰する人達、富士山を登拝する人々の深い崇敬を集めている。

御祭神は、鎮火・子授・安産・子育の女神・木花咲耶姫命。
合わせて、大己貴命・彦火火出見命の2柱を祀る。

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