スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平成27年 藤原光親卿慰霊祭 御斎行

去る5月27日、須走地区区長会主催により例年の祭典・藤原光親卿慰霊祭(別名・按察使(あぜち)祭)が、現地・篭坂峠の矢筈山にて斎行された。
当日は、当社氏子会が輪番で選出される世話人5名と区長会により準備が行われ、須走地区や小山町関係団体様など多くの御参列の下で斎行し、また直会が行われた。

かつては、矢筈山の上のほう・石碑がある場所まで登り、石碑の前で祭典が行われていたが、ある時期より諸事情によって矢筈山の中ほどから石碑を向いて遥拝する形にて祭典が執り行われている。
いずれの場合も山の斜面に祭壇を準備したり、年1回の祭典であるために、準備や清掃などをする関係から、敬神崇祖の立場にある氏子会から世話人が選ばれ、須走地区区長会・小山町須走支所との共同によって準備が行われている。

藤原光親卿は、鎌倉時代である1176~1221年を生きた人物で、清廉で純潔な心の持ち主であったと伝えられる。
公家・朝廷の役人であり、権中納言・按察使(地方行政の監督)の職に就いていた。
鎌倉幕府・北条氏に対し反旗を翻した後鳥羽上皇の近臣であり、承久の乱にも参加した。
しかし、光親卿は討幕は無謀な計画だとして上皇を諌めたが聞き入れられず、勅令(絶対的な命令)を受けて止む無く参加することになった。承久の乱は上皇方の敗北に終わり、後鳥羽上皇は流刑になり、光親卿も捕虜となった。
その後、京都へ送られる途中で篭坂峠・矢筈山にて処断された。享年46歳。
北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、生前の人柄も含めて、光親を処刑した事を酷く悔やんだと言われている。

処断された後、現地の住人によって弔いがなされ、現地に石碑・祠を作ったり、遺髪が久成寺に納められたりした。
藤原の姓から天神様としても崇められ、例年の慰霊が伝えられ、いまに至っている。

5ページ目・藤原光親卿石碑 DSCN0461.jpg DSCN0462.jpg
スポンサーサイト

平成27年 冨士浅間神社例大祭 御斎行

去る5月4・5・6日、当社では1年で最大の祭典・例大祭が、氏子会祭典委員会を中心により斎行された。
祭典の期間は1日ほど雨の危険に晒されたものの、とくに本日である5日は晴天に恵まれ、諸事が執り進められた。

先ず、5月4日には、氏子総代・祭典委員・氏子青年会・子供会連合会長・須走青年の会会長の御参列の下、例大祭前夜祭が斎行された。
前夜祭は、本日5日の例大祭諸事が無事に執り行われるとともに、参加者の安全無事を祈念すべく行われる。
祭典に直接かかわる氏子関係を除き、子供会様には5日の午前中に子供神輿での氏子地域である須走地区の練り歩きが行われるとともに、午後の渡御にも参加して頂く。須走青年の会様(いわゆる青年団)は伝統的に渡御の折に富士山神輿を担いで頂いており、文字通り祭典に華と勢いを添えて頂いている。
尚、この日は祭典・神事のみとなり、夜間は境内ライトアップのみというのが慣例となっている。

DSCN0285.jpg DSCN0302.jpg

次に、本日である5日には、午前中に例大祭・本殿祭、午後に神幸祭がそれぞれ斎行された。
午前10時から斎行された本殿祭では、須走地区だけでなく、小山町や関係のある他地区の神社総代様・区長様、また当社を特別に崇敬される崇敬者様など多くの御参列頂いた。
祭典では、神職そして総代により神饌(野菜などのお供え物)を供したのち、宮司が祝詞を奏上、その後各位が玉串を拝礼し、神社・須走地区・小山町などそれぞれの益々の興隆・発展を祈念した。

AAA_7349.jpg

午後1時からの神幸祭では、これに先立って午後零時40分より御神輿(山車)に神様をお遷しする発輿祭を行った。これは、神様を神輿にお遷しし、渡御での練り歩きに際して遍く地区の方々に漏れることなく御神威を賜るよう祈念し、また無事に渡御が執り運ぶようお願いをするものである。
そして、折り返し地点・須走東の防災センターにおいて御旅所祭を斎行し、休憩をとる。御旅所祭は、御神輿にいらっしゃる神様に休憩して頂くとともに、休息する地域の人々の御隆昌・御健勝を祈念し、休憩が終わると御旅所発輿祭が行われる。これも、渡御の復路の安全を祈念するために斎行する。
その後、午後4時すぎには社殿へと戻り、御神輿から社殿へ神様をお遷しする還幸祭(遷座祭)が斎行され、渡御が無事故安全のうちに終えたことを感謝するのである。

AAA_7451.jpg AAA_7457.jpg AAA_7452.jpg

AAA_7506.jpg AAA_7518.jpg AAA_8002.jpg AAA_7471.jpg

こうして本日の神事を全て終えた後、夕方からは境内にて祭典委員会・氏子青年会が中心となって催事が行われた。
舞台でのよさいこや太鼓、パフォーマーによる演出は多くの参拝者の目を惹きつけ、神賑行事に華を添えて頂いた。
さらに、本年の目玉として、遠州・手筒花火が行われた。これには小学生以上の子供が参加出来、多くの子供も参加を頂いた。飛び散る花火で境内を明るく照らして頂き、参加する人、お参りに来た人だけでなく、勿論神様にもお喜び頂いた。
また、本年は出店も多く出されており、おいしい食べ物の匂いと味をお供え頂いた。
最後には、恒例となっている餅撒きが行われ、多くの方に福が撒かれ、例大祭の最期を盛り上げて頂いた。

AAA_8025.jpg AAA_8084.jpg DSC_2076.jpg

AAA_8190.jpg DSC_2144.jpg AAA_8205.jpg

翌6日には、氏子総代・祭典委員長・祭典委員長・子供会連合会長御参列の下、後日祭が斎行された。
これは、例大祭諸事の完遂と安全無事故での終了を感謝するとともに、改めて今後の地区の発展をお祈りするものである。そして、この日のうちに境内の片づけは終わり、平時の装いに戻ることになり、祭典と平時の結界をひいて頂くのである。
夕方からは直会が盛大に行われ、祭典委員・氏子青年会はじめ参加して頂いた皆様の労を労った。

この場をお借りして、改めて例大祭の無事の斎行、そして盛大に開催されたことを、氏子会祭典委員様、そして氏子ね員会様をはじめ多くの関係者様に心より厚く感謝と御礼を申し上げる次第である。

本当にありがとうございました。お疲れ様でございました。
プロフィール

富士山東口本宮 冨士浅間神社

Author:富士山東口本宮 冨士浅間神社
桓武天皇の時代・延暦21(802)年、富士山東脚が噴火し、雷鳴・地震が終日止まず人々恐れおののいて仕事も手につかない日々が続いた。

依って国司郡司が人々の憂いを憐れみ、鎮火の祈願を行うために富士山東面・須走の地(現在の社地)に斎場を設け、祭事を行った。

すると、翌年4月初申の日に噴火がおさまった。そして、平城天皇の時代・大同2(807)年、その鎮火祭の跡地(現在の社地)に鎮火の御礼のため神を祀ったと伝える。

当社は、富士山須走口登山道の起点となる「富士山東口(=須走口)本宮 冨士浅間神社」である。
氏子を始め富士山を信仰する人達、富士山を登拝する人々の深い崇敬を集めている。

御祭神は、鎮火・子授・安産・子育の女神・木花咲耶姫命。
合わせて、大己貴命・彦火火出見命の2柱を祀る。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。