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9月斎行祭典の御報告

【野中神社 例祭の斎行】

去る9月4日、当社の境外末社である野中神社の例祭が、地元区長会並びに氏子世話人当番主催の下、斎行された。
地元関係団体様の多数の御参列を頂き、好天の中で恙無く執り修められた。

野中神社はかつて大日堂と呼ばれ、明治時代・神仏分離令(廃仏毀釈)の際に現在の名前へと改称された。
大日堂時代には大日如来が安置されていたが、現在は大日孁貴尊(=天照大神)という日の神様をお祀りする。
東口=須走口登山道の傍に(一説では登山道の途中に鎮座)、神域である富士山と俗世界である村・集落との境に鎮座し、護摩が焚かれ、登山安全や雨乞いの祈祷されていたと伝えられる。
また、富士山の麓の町々に流れる川の水源が側にあり、水源の守り神ともされている。そのため、当時の村民たちが寄進した石灯籠があったり、祭典時には当該の区長も来賓として参列する。

明確な創建の年は不明だが、書物により明応9(1500)年には存在していた可能性があり、貞亨3(1686)年には明確に史料に存在が記されている。

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【須走護国神社 秋分祭】

去る9月18日、地元区長会・須走忠霊奉賛会主催の下、御遺族はじめ地元関係団体様御参列により祭典が斎行された。
当日は天候がはっきりしなかったものの、次第に雨足が強まったこともあり、止む無く当社社務所講堂にて遥拝形式にて斎行した。
祭典後には、区長会・忠霊奉賛会からの挨拶と、遺族会御代表による謝辞が伝えられた。
いずれも本年が戦後70年の節目の年であることに重きを置いた内容であるとともに、いまなお一集落(須走地区などの1単位)で祭典が斎行されていることは希有であるとし、今後も引き続いての祭典斎行、ひいては須走地区出身の英霊への慰霊がお願いされた。

須走護国神社は、明治期・西南戦争から昭和期・大東亜戦争(=太平洋戦争・第二次世界大戦)までに戦没された、須走地区出身の英霊二十五柱をお祀りする。春・秋の彼岸に際し、それぞれ春分祭・秋分祭を斎行する。

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【祖霊社 秋分祭・合祀祭 並びに冨士浅間神社秋分祭の御斎行】

去る9月23日、境内に鎮座し、亡くなられた氏子の御霊をお祀りする祖霊社において、秋の彼岸に際しての祭典・秋分祭が斎行された。
当日は、本年春の彼岸からこの日までに亡くなられた氏子(五十日祭を終えたことが前提)6柱の御遺族御参列の下、天気にも恵まれ滞りなく執り修められた。
この祭典では、祀られた御霊の慰霊=秋分祭とともに、新たなに合祀する合祀祭を合わせて斎行する。

又、正午には神職により冨士浅間神社としての秋分祭も斎行され、神道の精神=敬神崇祖の理念の下、日本国の先人に尊崇の念を捧げるとともに、皇室と国家の弥栄を祈念した。

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富士山東口本宮 冨士浅間神社

Author:富士山東口本宮 冨士浅間神社
桓武天皇の時代・延暦21(802)年、富士山東脚が噴火し、雷鳴・地震が終日止まず人々恐れおののいて仕事も手につかない日々が続いた。

依って国司郡司が人々の憂いを憐れみ、鎮火の祈願を行うために富士山東面・須走の地(現在の社地)に斎場を設け、祭事を行った。

すると、翌年4月初申の日に噴火がおさまった。そして、平城天皇の時代・大同2(807)年、その鎮火祭の跡地(現在の社地)に鎮火の御礼のため神を祀ったと伝える。

当社は、富士山須走口登山道の起点となる「富士山東口(=須走口)本宮 冨士浅間神社」である。
氏子を始め富士山を信仰する人達、富士山を登拝する人々の深い崇敬を集めている。

御祭神は、鎮火・子授・安産・子育の女神・木花咲耶姫命。
合わせて、大己貴命・彦火火出見命の2柱を祀る。

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