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令和3年 例大祭斎行(冨士浅間神社)

去る5月5日には、1年に1度の当社例大祭を斎行し、前日4日には前夜祭を、翌日6日には後日祭を合わせて斎行致しました。

コロナ禍による2年ぶりの例大祭、今回は通常とは異なる運営での斎行・開催でありました。

当社では氏子会という組織の輪番制で、毎年祭典委員(当番)を招集し、祭典委員会という組織を年明けに発足し、準備を進めて参ります。
しかしながら、昨年はこの形で準備をしていたものの、感染拡大や緊急事態宣言等の事由により、止む無く最低限規模すなわち社殿での神事のみを執り行い、また来賓も招かない状況でありました。
この折の祭典委員会の皆様には、予測不可能な事態の中でも最後まで御尽力頂きましたことに、改めて御礼申し上げます。

本年は、このことを顧みるとともに、渡御・神幸祭を斎行するためにはどうしたらいいか?という点に主眼を置き、氏子青年会OB会である神桜会提案による、特別措置的な臨時編成での祭典委員会を発足しました。
これは、総代会・氏子青年会・神桜会で編成し、突発的事態や最終的な対応を迅速に行うことを目的としたものであります。
昨年のように準備を進めていても、いざ間際になって止む無く中止になることも想定しておりました。

内容としましては最終的に4月末頃に決定。
通例よりも来賓を限定してお招きした中での本殿祭(神事)、本神輿とその周囲だけを出御される渡御・神幸祭、演芸や出店などは無くし、夜の打ち上げ花火という3点を中心に計画がなされました。

本殿祭は、参列者が少ない中ではありましたが、地域関係団体の方々を中心に御昇殿頂き、祭典は諸事恙無く執り修め致しました。

神幸祭は、本神輿1基で須走本通りを下がり、御旅所(休憩所)を経て、須走本通りを上がってくる通例の順路でありました。
神輿には総代会・氏子青年会・神桜会のほか、有志を氏子会員から募り、その方々にも神輿や周囲のもの(威儀物など)を奉持頂きました。
残念ながら出発直前から雨となり、神輿に雨避け対策は施しましたが、一部祭典を省略・予定よりも時間を繰り上げての渡御となりました。
尚、渡御参加者はコロナ対策の観点から例年とは違って平服で参加頂きましたが、疫病退散を祈念して職員が奉製した紙マスクを装着して御奉仕頂きました。

夜の打ち上げ花火は、通例の夜の部=演芸等に替わるものであり、自宅から楽しんで頂くことを主旨としました。
30分に及ぶ壮大な花火は疫病退散を祈願したものであり、少しでも地域の方々の癒し・憩の時間となっていれば幸いでございます。

今回は例外的な対応となりましたが、御協力頂きました皆様の御理解と御協力を頂きまして、当社例大祭のいつものの形で祭典を終えることが出来ました。
改めて、心より深く御礼申し上げます。
まだまだ先の見通すことの出来ないコロナ禍ではありますが、来年には本来の形に戻り、地域の皆様・氏子会が挙って御奉仕・お祝い出来る例大祭になればと、祈るばかりであります。
この度は誠にありがとうございました。

*画像は調整不足のため、サムネイルが小さいですが、クリックして頂ければ大きくなります

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富士山東口本宮 冨士浅間神社

Author:富士山東口本宮 冨士浅間神社
桓武天皇の時代・延暦21(802)年、富士山東脚が噴火し、雷鳴・地震が終日止まず人々恐れおののいて仕事も手につかない日々が続いた。

依って国司郡司が人々の憂いを憐れみ、鎮火の祈願を行うために富士山東面・須走の地(現在の社地)に斎場を設け、祭事を行った。

すると、翌年4月初申の日に噴火がおさまった。そして、平城天皇の時代・大同2(807)年、その鎮火祭の跡地(現在の社地)に鎮火の御礼のため神を祀ったと伝える。

当社は、富士山須走口登山道の起点となる「富士山東口(=須走口)本宮 冨士浅間神社」である。
氏子を始め富士山を信仰する人達、富士山を登拝する人々の深い崇敬を集めている。

御祭神は、鎮火・子授・安産・子育の女神・木花咲耶姫命。
合わせて、大己貴命・彦火火出見命の2柱を祀る。

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